2005年 02月 17日
十勝の朝 |
ずいぶん前、15年そこら昔に北海道に行ったとき、十勝の平原の中にある修道院に熱心なカトリックの人にくっついて行ったことがあります。その早朝、氷点下20度という極寒の中、イタリア人の神父さんがホテル前まで車で迎えに来てくださったのでしたが、その車に乗って、まるでロシアのどこかの街に紛れ込んだような、不思議にフラットな光景のつづく帯広の街を抜け、白い平原をどう通っていったのか、その修道院に到着しました。
厳律の修道院とはいえ、さすがに暖房は必要なのですが、それでも20度にはならないくらいのうすら寒い院内で、ミサの始まる時間を静かに待ちました。多くの観想修道院のように修道女の姿はほとんど見えないつくりになっています。厳しい生活なのは装飾の少ない簡素な建物を見てもわかりましたが、寒いかわりにつつましい喜びが満ちているのを感じます。これは文学的なレトリックではなくて、たぶん、多くの人がそこに流れている澄んだ風の流れを感じることができるだろうと思います。
前の席には背中を丸めた小さなおばあさんが座っていました。何も話をしたわけではないですが、その後姿をじっと見つめていると、毎日、毎日、ここに通っています、と返事が聞こえてきそうでした。
あの方は、と、ミサのあと、修道院の食堂で朝食をごちそうになったとき、神父さんが教えてくださったのでした。もともとピアニストで、芸大で教鞭を執られていた方でね。
トーストとサラダを食べているような、ひかりを食べているような不思議な心持ちでその話に耳を傾けていました。こんな朝がある、ということにしみじみ感動していました。
その感慨を説明するのは難しいことですが、なんということのない自分の日常が知らない間に祝福されているのかもしれない、とはっきりと予感した時だったからなのだろう、と思うことがあります。
厳律の修道院とはいえ、さすがに暖房は必要なのですが、それでも20度にはならないくらいのうすら寒い院内で、ミサの始まる時間を静かに待ちました。多くの観想修道院のように修道女の姿はほとんど見えないつくりになっています。厳しい生活なのは装飾の少ない簡素な建物を見てもわかりましたが、寒いかわりにつつましい喜びが満ちているのを感じます。これは文学的なレトリックではなくて、たぶん、多くの人がそこに流れている澄んだ風の流れを感じることができるだろうと思います。
前の席には背中を丸めた小さなおばあさんが座っていました。何も話をしたわけではないですが、その後姿をじっと見つめていると、毎日、毎日、ここに通っています、と返事が聞こえてきそうでした。
あの方は、と、ミサのあと、修道院の食堂で朝食をごちそうになったとき、神父さんが教えてくださったのでした。もともとピアニストで、芸大で教鞭を執られていた方でね。
トーストとサラダを食べているような、ひかりを食べているような不思議な心持ちでその話に耳を傾けていました。こんな朝がある、ということにしみじみ感動していました。
その感慨を説明するのは難しいことですが、なんということのない自分の日常が知らない間に祝福されているのかもしれない、とはっきりと予感した時だったからなのだろう、と思うことがあります。
by brunodujapon
| 2005-02-17 23:52
| 抹香紀行