2005年 03月 10日
ラブ&デス |
とうとう手に入れた、傑作…とは呼べなくても、個人的には大好きな映画です。例によって、ヤフオクで。『ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア』のときは結構熾烈な争い(そして破れて、DVDでなくVHSを落とした)だったのだけど、これは楽勝でした。そうはいってもカンヌ映画祭で賞ももらっているし、悪くないどころかいい映画だと思います。ひいき目でなくても。
この映画についてはネットである方と一年半ほど前に掲示板で話をして、その時の対話というのは自分自身にとってはとても大切な話になっています。書きながら自分を内側から照らすものと、その方の言葉の光に相照らされて、自分を支えるもののひとつになっています…というとオーバーかも。いや、でもほんと見るべきときにみた映画だったし、語るべきときに語る対話というものがある、というのはほんとだと思います。
真面目な、というよりこれは完全にアナログ世界の亡霊のような、英国紳士デアスの物語(『エイリアン』のジョン・ハートが演じています)です。デアスはDeathと綴るので「亡霊」と表現したのはあながち間違いではないでしょう。彼はテレビも見ない、ビデオの使い方もわからない筋金入りの堅物の作家、しかも英国文壇の重鎮という設定です。そのデアスが雨宿りをするために滅多に入らない映画館へ、しかも間違えてアメリカのB級青春映画を見てしまうハメになるのです。その映画のタイトルが「ホットパンツ・カレッジ2」。このタイトルだけで笑いました。ご丁寧に「2」というあたりの揶揄のセンスがなかなかいい感じです。そのスクリーンに映し出されたのはいかにもあめりかんな好青年。これはかの『ビバリーヒルズ青春白書』のジェイソン・プリーストリーが演じています。ほぼ等身大の役を演じているわけですね。その姿はデアスにとってはまさに青天の霹靂。予期せぬ美の発見だったわけです。
以来デアスは芸能雑誌の切り抜きコレクションをコソコソと始めたり、レンタルビデオで「ホットパンツ・カレッジ」(笑)を借りたりと似合わないことを始めるのですが、ここらあたりはまさにコメディ。とにかく英国とアメリカの文化の差を際立たせ、笑わせてくれます。ヴィスコンティの『ヴェニスに死す』のパロディといった趣です。
おかしくなったデアスに友人が休暇を取ることをすすめます。デアスは友人のすすめどおり、旅に出るのですが、行き先はもちろんプリーストリー青年(役名忘れました…恥)の住むニューヨークのロングアイランド。デアスはにわかストーカーと化してなんとか接近を試みるのです。
一方等身大のプリーストリー青年はアイドルとしての将来に行き詰まりを感じ悩んでいます。そんなところに英国から来た、自分の周りには絶対にいない知性派デアスの言葉に生きる隘路を見出しはじめます。
デアスにとってプリーストリー青年は、古の人が「真善美」と呼んだものそのもの、というよりは─対話の相手をしてくださったTさんの言葉を借りれば─「生きさせてくれるもの」だったのです。
死神デアスは青年への恋(?)によって見る見る生き生きしてきます。当然のことながらゲイでもない青年がその思いを受け入れてくれるわけもないのですが……しかし愛の告白をし、ロンドンへ去るデアスの表情は穏やかで生気に満ちています。老人の思いを拒絶した青年もまた、今までとは違う表情を見せます。デアスが送ったファックス(青年との出会いによってデアスはファックスまで使いこなせるほど変わっていたわけです)を破り捨てながら、そこに書かれていた言葉の力に青年もまた生きはじめるのです。
ちょうどタイミングよくポルトガルの修道女が遺した『ぽるとがるぶみ』の話題をしていたのでしたが、どうしたものかこの『ラブ&デス』と『ぽるとがるぶみ』のことが重なりあいました。よくも悪くも人と人の出会いはそこに消し去ることの難しい傷跡を残します。マリアナ修道女は不実なフランスの侯爵に捨てられるのですが、彼女の一方通行の手紙、ポルトガルからフランスへ送られた数通の書簡からは彼女の人間としての成長のあとが読み取れると言われます。最後の手紙の言葉はこんなふうなものです(佐藤春夫訳)。
「さようなら、あなたさまにお目にかからねばよかつたものをと、わたしはどんなにか後悔しますことか。ああ、こんな一句が、どれほど嘘であるかよく自分で気づいてゐます。これを書きながら今も思ふのにはあなたさまについぞお目もじしなかつたよりはあなたさまをお愛し申して不幸な方がずつと増しでございます」
恋によって変容を遂げた女性は最終的にこんな境地に至るのです。あなたを愛したことは私の誇りです。たとえハッピーエンドでなくても、出会いというものが遺す痕跡の力をそこに感じ取ることができます。
デアスも青年も同様に、出会いと別れを通して変わっていきました。それを思うと、
「恐れてはいけない」
とどこかから声が響いているような錯覚にとらわれます。
この映画についてはネットである方と一年半ほど前に掲示板で話をして、その時の対話というのは自分自身にとってはとても大切な話になっています。書きながら自分を内側から照らすものと、その方の言葉の光に相照らされて、自分を支えるもののひとつになっています…というとオーバーかも。いや、でもほんと見るべきときにみた映画だったし、語るべきときに語る対話というものがある、というのはほんとだと思います。
真面目な、というよりこれは完全にアナログ世界の亡霊のような、英国紳士デアスの物語(『エイリアン』のジョン・ハートが演じています)です。デアスはDeathと綴るので「亡霊」と表現したのはあながち間違いではないでしょう。彼はテレビも見ない、ビデオの使い方もわからない筋金入りの堅物の作家、しかも英国文壇の重鎮という設定です。そのデアスが雨宿りをするために滅多に入らない映画館へ、しかも間違えてアメリカのB級青春映画を見てしまうハメになるのです。その映画のタイトルが「ホットパンツ・カレッジ2」。このタイトルだけで笑いました。ご丁寧に「2」というあたりの揶揄のセンスがなかなかいい感じです。そのスクリーンに映し出されたのはいかにもあめりかんな好青年。これはかの『ビバリーヒルズ青春白書』のジェイソン・プリーストリーが演じています。ほぼ等身大の役を演じているわけですね。その姿はデアスにとってはまさに青天の霹靂。予期せぬ美の発見だったわけです。
以来デアスは芸能雑誌の切り抜きコレクションをコソコソと始めたり、レンタルビデオで「ホットパンツ・カレッジ」(笑)を借りたりと似合わないことを始めるのですが、ここらあたりはまさにコメディ。とにかく英国とアメリカの文化の差を際立たせ、笑わせてくれます。ヴィスコンティの『ヴェニスに死す』のパロディといった趣です。
おかしくなったデアスに友人が休暇を取ることをすすめます。デアスは友人のすすめどおり、旅に出るのですが、行き先はもちろんプリーストリー青年(役名忘れました…恥)の住むニューヨークのロングアイランド。デアスはにわかストーカーと化してなんとか接近を試みるのです。
一方等身大のプリーストリー青年はアイドルとしての将来に行き詰まりを感じ悩んでいます。そんなところに英国から来た、自分の周りには絶対にいない知性派デアスの言葉に生きる隘路を見出しはじめます。
デアスにとってプリーストリー青年は、古の人が「真善美」と呼んだものそのもの、というよりは─対話の相手をしてくださったTさんの言葉を借りれば─「生きさせてくれるもの」だったのです。
死神デアスは青年への恋(?)によって見る見る生き生きしてきます。当然のことながらゲイでもない青年がその思いを受け入れてくれるわけもないのですが……しかし愛の告白をし、ロンドンへ去るデアスの表情は穏やかで生気に満ちています。老人の思いを拒絶した青年もまた、今までとは違う表情を見せます。デアスが送ったファックス(青年との出会いによってデアスはファックスまで使いこなせるほど変わっていたわけです)を破り捨てながら、そこに書かれていた言葉の力に青年もまた生きはじめるのです。
ちょうどタイミングよくポルトガルの修道女が遺した『ぽるとがるぶみ』の話題をしていたのでしたが、どうしたものかこの『ラブ&デス』と『ぽるとがるぶみ』のことが重なりあいました。よくも悪くも人と人の出会いはそこに消し去ることの難しい傷跡を残します。マリアナ修道女は不実なフランスの侯爵に捨てられるのですが、彼女の一方通行の手紙、ポルトガルからフランスへ送られた数通の書簡からは彼女の人間としての成長のあとが読み取れると言われます。最後の手紙の言葉はこんなふうなものです(佐藤春夫訳)。
「さようなら、あなたさまにお目にかからねばよかつたものをと、わたしはどんなにか後悔しますことか。ああ、こんな一句が、どれほど嘘であるかよく自分で気づいてゐます。これを書きながら今も思ふのにはあなたさまについぞお目もじしなかつたよりはあなたさまをお愛し申して不幸な方がずつと増しでございます」
恋によって変容を遂げた女性は最終的にこんな境地に至るのです。あなたを愛したことは私の誇りです。たとえハッピーエンドでなくても、出会いというものが遺す痕跡の力をそこに感じ取ることができます。
デアスも青年も同様に、出会いと別れを通して変わっていきました。それを思うと、
「恐れてはいけない」
とどこかから声が響いているような錯覚にとらわれます。
by brunodujapon
| 2005-03-10 23:58
| 映画